涙は、目に見える感情。

理由のわからない涙が出た
悲しいのか嬉しいのか
それすらわからない涙が出た

 

たった今の話。
4月8日、夜中の3時だ。
この街の夜は、遠くに音がひそんだ静けさで
無機質で奇妙な風が吹く。

 

理由はわからないけれど
何かに胸が締め付けられて痛かった
たぶん、何だろう、また私が知らないうちに
閉じ込めて来た自分がここにも居るのだと思う


こういうことはこれまで何度かあったので
さすがにもう分かってきたけれど。
泣いているのは私じゃなくて
どうやらその自分らしいのだ。

 

ここに居るよと、泣く声を聞かせてくれている。
だから私はそんな自分を見つけ出して、
話して、言葉にして出してあげたいと思う。
思う、ことで会話をする、不思議な感覚。

 

ずっと頑張ってくれてありがとう、気づかずごめんね。
そんな風に思うと、すごく嬉しそうに動くから
たまらなく愛おしくなる時がある、そしてその相手は自分だ。
自分が愛しい。これまでは、ありえなかったこと。

 

とはいえ、しばらくブログを書いて居なかったので、
前回の自分から今日、今の自分の状況になるまでの間にも
いくつかの、それなりの大きさの変化があったのだけど
記事にして居なかったので、自分自身
整理が追いついていない状態なのが正直なところ。

 

でもいいんだ、不完全でも。
今は、そんな自分と話してみようか
最近は、ずっと頑張って居たしね、あれも楽しかったよね

 
簡単に言えば、最近は、

自分の過去を手放したり、
エゴだらけな自分を認識したり
今の自分の形や色が分かったり、
その自分で社会に身を置くことができたり
そんなことをした。できた。


小さなことばかりだけど、
自分と手を繋いで成し遂げたという感覚。

 

そして今は、その自分と、人との間に
何か(おそらく関係というもの)を築く、
そんな段階にきている。


自分が、自分のままで誰かに愛されてもいいんだと、
愛されることを許すための
壁の前に進んで来たんだと思う。

(”愛される”というのは、ここでは”受け入れられる”に
 近い感じの意味で使ってます)

 

そう、進んできたのだ、
はっきりとその感覚がある。
確かにたった昨日までは、苦しんだからこそ持てた
気持ちがたくさんあった。今はない。

 

だけどそれは、失ったのでもなければ
間違いだったのでもない。


そんな風な、これまでという事実が存在し、
今は、今という事実が存在する。それだけ。

 

確かに、あの日からずっと、
ありのままの自分になれずにきた。
「愛されること」に「理由」が必要だと思い
生きてきた。

  

だけど冷静に考えてみれば、これからもそんな風に思って
生きていかなければならない理由なんてものもまた、ない。


許すということは、時に痛みを伴うけれど
それは湿った傷に風を当てるようなものだ
いつか乾き、肌に風を感じて歩くため。

理由なんかなくても、愛されたっていい。
理由なんかなくても、愛されなくたっていい。
どっちでもいい。

私は、何を守ろうとしているのだろう?
このまま何かを愛して、愛されようとして
何を失い、何が傷つくのだろう?
何がこんなにも怖いのだろう?

 

考えてみると、ここにもエゴがいた、もう笑
もはやこれは癖。架空の恐怖を作り出して、
ぜんぜん守れてないのに自分を守ろうとする自分。
それを許しちゃうと、また傷つくかもしれないからね。


大丈夫。もともと何もないよ。
だって「今」以外は、「これまで」しか知らないんだ。
「これまで」はあなたがよく知ってるでしょ。
変わらない「これまで」

 

「これまで」と同じような「今」にしなくちゃならない理由はないよ
「これまで」は「今」の理由にはもうできないよ。

 

「今」はいつだって「今」だけで「今」なんだ。

 

「これまで」と「今」は関係ない。
だけど「今」はこの瞬間も「これまで」に変わっていく。

 

新しい「これまで」を作ろうよ、
変わらない変えられない「これまで」を。

 

どんな「これまで」にしようか?
「今」選んでいこうよ

 

愛されても愛されなくてもどっちでもいいよ。
できてもできなくても。


涙は、自分の声
目に見える感情。心強いよ。
事実を存在させていこう

 

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