枠とかたち

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”スノーデン”


オリバーストーン監督による、2017年に公開された映画を
ドイツ人の同居人と観た。

 

アメリカのNSA国家安全保障局)およびCIA(中央情報局)の
元局員で、個人情報の収集監視の手口を告発した
エドワード・J・スノーデンの話で、
2004年ー2013年までの実際の出来事を映画にしたもの。

 
正直、難しいことはよくわからないので、
人が一人の人として自分に従い生きること
その時について回る現実と孤独と苦しみ、自由と責任と影響と犠牲。
そんないろいろの一部を少し、目の当たりにした、という感想。

だけど目にしただけで、
意味はリアルに感じられては居ない。

 

スノーデンは自身の信条、正義に従った行動をとった。
そのことが引き起こすであろうことの
責任や影響を考えることができた、
考えざるを得なかった上でのその選択は
どれ程の覚悟が要ったのだろう、、。
あー想像力の無さを痛感する日々。

 

以前、「コクソン」という映画を観た。
その際わたしは、
”何が正義かなんて、その時々の角度で変わるものだ
 だからこそ何か1つ、信じるべきだったのでは?”
・・なんて、少しわかったようなことを書いた。

 

そして今回、彼は自身の正義に従った。
前回みた”弱さ”に対しての”強さ”を、
わたしはあまりにも甘くみて居たと感じた。 

 


さて。映画の内容もさることながら、
わたしにとっては少し、
別の視点からも他人事とは思えないような映画だった。

 

俗にいう、一般社会の枠の外に生きる人をパートナーにした時
関係や家庭が破綻しないよう生きるにはどうあればいいか。

 

兼ねてから同居人(ドイツ人とは別の)から
投げかけられるそんな質問の影響もすくなからず、、
いや大いにあるが、最近考えて居たことのヒントをもらったような気がした。
今出せる限りの答えかもしれない。
今はまだ全然短絡的で至らない考えだけどね。

 

同居人は言う。
「しっかり見とけよ。non-governmentとはどういうことなのかと言うことを
 お前はもう当事者で、関係のない話じゃないぞ。」
「???」
わたしは意味がわからなかった。
「所属しないと言う選択をして生きていくとはどう言うことか、
 そしてそれを貫くとはどういうことか」

「んー・・」

 

non-governmentとか所属とか、彼はいつも少し話が大きい。
だけど実際は、わたしが見えてないだけなんだろう。
だから言っている意味がよくわからないまま観て居た。


結果、やっぱりそんな大きな意味を理解することはできなかったけれど、
自分と相手、そんな規模でなら、少し思えることはあった。

 

関係と家庭、どちらの場合かでまた意味は変わってくるとおもうけど
関係の場合でいうならエゴとの向き合い方だなあとか。


そもそも関係も家庭も、ろくにその意味を考えずに
いつのまにかお互い同じような状態を指しているけど、
そもそもその”ありかた”、”かたち”から考えたいな、と思った。

 

同居人は、自身の信念・やりたいこと、
家庭・大切な人との関係、それらを両立させるのは
どうすればいいのか、ずっとわからないのだという。

 

彼曰く、彼の人生において、
ほしいと思ったものはほぼ全てと言っていいほど
手に入れてきたけれど、この答えだけは未だにわからないんだって。

 

わたしの彼に対して、自分に近い部分を持っていると
強く感じているようで、切実にも見えるその答えを
わたしたちに証明してほしいと考えているらしい。

 

そんな同居人のために、、という気はさらさらないが、
わたしにとっても確かにいずれ降りかかるであろう問題で、
もしこの先も一緒にいるなら、避けては通れないことかもなぁ、
なんて考える方向というか、課題みたいなものを
こんな風に提示してくれる同居人に感謝したいとおもう。

 

ここからは多分、うまく言葉にできない。
だから言葉にしてみるのだけど。

 

パートナーが、まぁ俗にいう一般社会向けではない人で、
そんな人を選んだら。
ほぼ確実に、関係や家庭は破綻してしまうというのが同居人の考えだ。
そしてそれが成り立つ人を見たことがないとのこと。

 

でもそこでまず疑問に思う。
関係や家庭は成り立たない。
その人を選んだ時点で、そんなことは分かっているのだ。
そもそも安定とか社会の枠組みの中での位置づけとか、
そんなところを見て選んだのではないし
自身の経験を持ってしても、もう一般的な安定や社会的な位置付けに
価値を置くことはもうないとおもう。

 

じゃあ関係や家庭ってなに?
自分の持つ一般社会とか家庭という概念は
なぜいつも安定した暮らし的なものをさすのか。
それはそれ1つしかないのじゃなくて自分の問題で、
わたしが何も考えてなかったんだ。


今回の映画のスノーデンとリンゼイの最終的な決断とありかたを見て
見えなくなってた概念の枠を意識した。
そこの概念まで外してしまえば、シンプルなことなのに。
そしてその概念のもとにあるのがまたもや自分のエゴだった。

 

自分の持っている幸せのかたち(家庭、安定)に
相手をはめ込んでいるじゃないかって思った。
その根底には、安心したいとか、そばに置いておきたいとか
そんな気持ちがあるんだよ。
そして本当に、その幸せのかたちは幸せなのかな?
わたしにとってそれはきっとそうじゃないから、考えよう。

 

一緒にいる
ってどういうことなんだろうね?
だってね、今実際に、
一緒に居なくても一緒にいるみたいな感じがするんだよ。

 

結論、一緒にいれる。根拠はないけど絶対に可能だ。
かたちを、自分たちで作る。
相手に求めないこと、お互いの自由を愛すること。
前提として、自分は自分の力で立つこと。

 

今のわたしはまだどうしても、
存在や気持ちが大きくなればなるほど、
ずっと一緒にいたいとか、自分のものにしたいっていう
気持ちは出てきてしまう。
だけどそれはエゴだ。
生じるのは仕方がない。だから向き合い方を考えるのだ。

 

きっと、かたち、がある。
そしてそのかたちは、制度や固定された共通の概念で
枠づけられたものよりもきっと
強く深いものだと思う。
そしてきっとそれは、
かたちがなくなってもかたちとして残るものだと思う。

 

で、たぶんね、それを選ぶということは
経済面、精神面、安全面、そんないろいろの波が激しく、
一般的な安定などとはほど遠いだろう。

 

そして喜びが幸せが大きいということは、
その分悲しみや苦しみも多く、大きいということなんだろう。
だけどわたしにはそれが安定に思える。強くそう感じる。

 

もちろん、まだわかってなんか居ない。その意味も、何も。
だけど、それはやらされているのではない。
自分が選んでいるし、選びたいのだ。
 

そんな風に生きたいんだ。
”思いっきり泣いたり笑ったりして生きたいんだ!”
って、思い悩んでたあの日々の
いつかの日記に書いて居たことば。

  

強くなりたい、と思った。
守られたいとかではない、守りたいのだ、
わたしも。わたしのやり方で。

 

踏み出す足に力がはいる。
どこに歩を進めればいいのだろう。
だけど進む目的が、定まった。

 

彼もまたこうして、わたしを強くする。
今、この瞬間こう思えるだけで
わたしは幸せだ、出会えて良かったと思う。

 

 

 

 

↓コクソンを見たときのブログ。 

yorunohikari.hatenablog.jp